平成13年7月、真夏の東京・日本武道館。
第26回全日本選抜少年剣道個人練成大会もいよいよ佳境を迎えていた。赤いたすきを背中に着け、決勝の舞台に進み出たのは当時中学3年生の愛媛成武舘・大亀健太(現在中央大学在学中)。戦いに臨む教え子の背中を、中野善文(46)は万感の思いで見つめていた…。
大亀 健太が学んだ成武舘道場
中野が郷里・愛媛県松山市で成武舘を創立したのは平成元年(1989)のことである。
大阪商業大学在学時に、剣道部コーチであった有馬光男範士(大阪府警察)から多大な影響を受けたという中野。有馬範士と接触することで、「自分も一生剣道に携わっていきたい」という思いが強まり、その気持ちが道場創立につながった。成武舘という道場名も尊敬する有馬範士の命名によるものだ。
雨の中黙々と素振りをする4年生
道場創立から数年した頃、兄とともに成武舘の門を叩いてきたのがまだ幼稚園生であった大亀だった。
「幼稚園の年長になると防具を着けるのですが、面をつけて立ったまま居眠りをする事もありました」
と当時を笑って振り返る中野だったが、時が経つにつれて大亀の才能に気付き始めることとなる。
「どんな技でも打てるけれど、器用な子ではありません。それよりも努力の天才。とにかく真面目に練習する子でした。」
週に5回の稽古に必死で取り組むことなどは当たり前。稽古終了後には一人で素振りを千本こなす。さらに中野をもっとも驚かせたのは、大亀が小学校4年生の時のこと。
「ある雨の日、用事があって彼の家に向かったんです。ふと庭に目を向けると合羽を着た彼が黙々と素振りをしていました…。」
中学校でも日本一に
努力は嘘をつかない。
大亀は成武舘のエースへと成長してゆく。 小学校6年生時、平成10年(1998)の全日本少年剣道練成大会では大将としてチームを引っ張り、団体の部で2位、個人戦では優勝の快挙を遂げた。
「中学校でも日本一になりたい」 と次の目標に意欲を燃やす大亀だったが、中学生ともなればまた周囲の技術レベルも一段とアップする。しかも全国大会個人戦の切符は、県の代表1名のみの狭き門。道場内での選考に漏れることもあって、1年、2年時の全国大会出場は叶わなかった。
迎えた中学生活最後の年。この勝負の年に、大亀は見事に県大会優勝を遂げ、個人戦での全国大会出場を決めた。これには指導者である中野も大きく安堵の溜息を漏らした。
全国大会当日、初戦は先制を許す苦しい展開となったが、ここを逆転で勝利すると、それからは波に乗ってゆく。
「集中力がすばらしかった。別人のような雰囲気を感じました」 と中野が語るように、気がつけば3年前と同じように全国大会決勝へと駒を進めていた。
万事休す…決死の相面勝負へ
決勝戦、大亀はその日の1回戦と同様に先制を許してしまう。あまりに鮮やかな出小手を取られ、中野も「これで万事休すか」と一度はあきらめかけたが、大亀に動じた様子は見られない。
相手の手元が上がるのを見越して逆胴を打つ大亀。この攻撃で相手は安易に手元を上げることができなくなってゆく。徐々にペースをつかんでいった大亀は、跳び込み面で一本返すことに成功し、試合は延長戦へと持ち込まれる。
延長戦、手に汗握って試合を見守る中野の眼前で、大亀は大胆にも相面勝負。身長で上回る相手に臆することなく、体を精一杯に伸ばして打ち込んだ面は、見事な一本となった。
「偶然の優勝ではなく、”自分は優勝するんだ”と狙っての優勝。指導者として感無量だったのと同時に、”この子は勝負の星を持っている”と感じさせる見事な技でした。」
(剣道日本 2007年3月号より引用させていただきました)
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